2007年6月 5日 (火)

会議三日目

 会議三日目の5月17日。気候はますます涼しくなる。

Agg_0001  やはり9時から口頭講演がホテルの会議室で始まる。講演といってもビデオを流すだけのものもある。この日の講演も興味深いものが多かった。どんどん考えさせらるものがあるが、だんだん諦めるべきだと思い知らされもする。Agg_0002特に財政と保険に付いて各国の救助組織のメンバー間で熱い議論が交わされていた。こうした議論に加わるほどの英語力がないのも事実だが、議論に加われるような救助組織の実態や実績がないのも事実である。
 Agg_000314時に講演が終わり1時間の休憩となるが、昼食は取らずに本当に休憩してしまった。15時からデモンストレーションがバラドラ洞窟の前で始まると言うので行くが、15分ほど準備が遅れていた。
 入口前の高さ30mあまりの岩壁を利用したレスキューデモでハンガリーとルーマニアの混成チームで行われた。Agg_0004担架は旧型のTSA担架を使用していた。新型のPetzlの担架は高価だという話をあちこちで聞いた。
Agg_0005 デモでは最初に15mほどカウンターウェイトシステムで真上に引き上げ、その後、斜めに移動し、また10mほど上がった場所からチロリアンブリッジで地上まで降ろすというもので20分ほどで終わった。かなりてきぱきとこなしていた。Agg_0006
 そのあとはルーマニアの担架のデモ。Petzlの担架に似ているが、よりコンパクトに収納できるものである。
Agg_0007 次はハンガリーの洞窟救助隊のメディカルキットの展示であった。酸素吸入マスク、血液中の酸素量の測定器、AED、点滴用の針と機材と薬液、沿え木、人工呼吸の補助具などさまざまなものが数個のタックルバッグに収まっていた。多分モルヒネもあったに違いない。Agg_0008
 その次はボルトのプレゼン。さまざまなタイプのボルトの利点と欠点を示しながらの説明である。見たことの無いタイプのものもあった。ちなみに海の傍で使うなら、ステンレスでも耐えられないのでロシア製のチタンが良いだろうとも。Agg_0009そんなもの何処で手に入るんだと思ったが、どこかにあるのだろう。昔、日本に来たロシア人ケイバー達はチタン製の竪穴装備を持っていたので、ロシアでは簡単に手に入るものなのかもしれない。Agg_0010
 そのあとはパワーツールと言うことで18V-36Vのバッテリハンマードリル5台ほどでの実習・実演だった。中でも、ねじ込み式のボルトがなかなか興味深かった。あけた穴に、ねじ自身で溝を掘ってとめるというもののようで、ヒルティから発売されている。 アイススクリューを小さくしたような構造で、岩を削りながら締めこんでいくようであるが、なんだか信用できない。Agg_0011テストなしには使いたくないなあ。 SSFからデータが出てくれば信用できるけれども。
 そのあとは、ハイフォンやニコララジオと同タイプの新型洞窟用通信機の実演。この手の通信機はやはり欲しい。Agg_0012 過去に岐阜であった洞窟事故の際に、この手の通信機があれば救助にかかった時間を大幅に短縮できただろう。

Agt_0002_1  最後に、スロヴァキアのケイビングギアメーカーであるメアンダー社のグスタフ社長による新型脱出用システムの紹介。5.5mm30mのケブラ-ロープを使いとてもコンパクトにまとまっている。しかし5回ぐらいの使用にしか耐えず、ロープは基本的には使い捨てのようだ。木にひっかかったパラグライダーからの脱出用には良いが、ケイビングで何に使うのかというとはなはだ疑問である。果たしてオンロープでサブロープとして使用できるのだろうか。できれば便利だろうが耐衝撃性能が懸念されるところだ。

Agt_0001  そしてすべてが終わった6時過ぎにハンガリーで最も長いバラドラ洞窟に入った。この洞窟はいくつかの入口が観光洞にもなっているし、隣国のスロヴァキアにも通じている。Agt_0003写真を撮りつつ遅れないように皆に付いていく。なにしろ、私にとっては今回のアグテレク国立公園で入ることのできる唯一の洞窟だからだ。 しばらく行くとコンサートホールに出る。Agt_0004 5人のメンバーによる演奏でアンコールも2回ありなかなか盛況であった。ここで45分ほ音楽を聞いた後、外に出るが、やはり写真を撮りながらなのでずいぶんゆっくりしてしまった。もっとも同じことを考える人も10人ぐらいはいた。Agt_0005コンサートホールまでの、水路沿いの通路と異なり、一段上の二次生成物の豊富な大きな空間であった。

Agt_0006  19半頃からさよならパーティである。やはり屋外で開催されているが、ホテルのケータリングサービスがあり、暖かな食べのものもサーブされていた。ファーストドリンクは近隣のトカイ地方のトカイワイン。初めて飲んだが、いわゆる貴腐ワインで甘く不思議なワインだ。Agt_0007

 ひとしきり、ハンガリーのおいしい品々を食べた後は、談笑の時間である。とはいえ言葉が不自由な私にはいろいろ問題がある。まあそれでもいくらかの人とは話をした。Agt_0008 日本に興味を持っている人とか、行く予定がと言う人は結構いたりする。日本は経済的に大きなマーケットでもあるし、先進技術もあるお国がらなのでビジネスや留学でという人が多いようだ。もっともほとんどの人は日本に行っても、忙しくて何処にも行く暇が無いとも言う。実際、私の所属クラブにも良く、仕事で日本に来ている人がケイビングしたいとやってくるのだが、結局仕事が忙しくて、ほとんど穴に行けないままに帰国してしまっている。旅行で短期間来る人の方が楽しんで帰れるぐらいだ。Agt_0009

 パーティの途中で、ハンガリーやその周辺諸国の洞窟写真の3次元スライドショーを見たりしながら過ごしていたが、疲れと寒さに耐えきれず23時ごろには退散した。ホテルの部屋からは24時過ぎまで歓声が聞こえていたが、その声がやむ前に就寝してしまったのでいつまでやっていたのかは良く判らない。

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2007年6月 2日 (土)

会議二日目

Img_0001_10  会議二日目となる5月16日。前日までの、暑さが嘘のようになくなり、涼しい一日となった。前日の嵐のせいかもしれないが、どちらが本来の気候なのだろうか。
 英国では4月はとても暑かったのに、5月は冷たく雨がふって草花が枯れてしまったと言っていたし、このところ世界的に気候がおかしいように思う。

Img_0002_5  口頭講演は9時に始まり、途中1度の休憩をはさみ14時に終わった。昨日より人はずいぶん減っている。ハンガリーケイバーのスタッフなどがそれぞれの仕事をしているからかもしれない。講演内容は各国のケイブレスキュー組織の歴史や現状などの報告、メディカルトリートメントについて、レスキューオペレーションについてなどあり、いろいろ考えさせられることが多かった。

 何故、日本では洞窟救助組織を作ることができないのだろうか。皆、自分のことや自分のクラブのことしか考えていないからなのだろうか。仕事が忙しく、自分のための活動しかする余裕がないのだろうか。

 日本に帰ったら最後の試みをしてみようかとも思うがどうしたものか。まあ、多分救助組織は必要だと誰しも言うだろうが、言うだけで何もしてはくれないだろう。ちょっと悲しい想像しかできない。

Img_0002_6 だいたい、救助組織を作るには、装備の初期投資に200万以上、毎年の装備などの維持や救助訓練の開催や、私が1997年に行った国際洞窟救助訓練への派遣補助などで50万程度の資金が必要だろう。寄付で賄えるとはとても思えない。初期投資はまかなえるとしても、継続していくには行政なり企業からの援助は必須となってしまうだろう。

Img_0005_1 口頭講演のあと、部屋に戻りエクスカーションの準備をしてから、レストランで昼食。ハンガリアンスタッフも食べているので、料理も注文もなにかと遅い。14時25分に入ったのだが、注文を取りに来たのは12時40分頃、料理がやって来たのは15時頃だった。日本の忙しい食事風景に慣れていると、もどかしいものがある。取り急ぎ料理を食べ15時15分に集合地へ急ぐ。

Img_0004 15時半にバス2台で出発する。1時間半でMISKOLCという大きな都市に着く。街中を抜けてすぐにMISKOLC-TAPOLOCAという所にある洞窟温泉に着く。
 温泉は入口のゲートを通りぬけた後、背後に山を控えた建物の中に入り、更衣室で着替えてから荷物をロッカーに100FTコインをいれて閉めて行く。

Img_0003_1  後で聞いたが、ここ10年でずいぶん作りかえられたそうで洞窟の入口などには自然の雰囲気は残っていない。壁も崩れないようにか塗り固められている。しかしながら、穴の中に入るとやはり形状は自然の洞窟を利用しているようで、いろいろな形態が残っている。温泉水が流れる通路などにはマイクログールが形成され、二次生成物で覆われつつある。

 水温は30度ほどで、洞窟外に隣接して設けられたプールは35度と少し暖かい。皆、やはり珍しいのかカメラを持った人が多い。ハンガリーの人は写真を撮るときにモデルのように寝そべってポーズを取ることが多いように感じる。あちこちで水着の女の子がそんなポーズをしていた。

Img_0003_2  19時に移動と言うことなので20分ほど前に上がり、着替えて外に出る。まあケイバー時間なのか結局は19時20分頃にバスで移動開始でアグテレク近くまで1時間半ほどかけて戻り山肌にあるレストランに着いた。
Img_0001_12  レストランではファーストプレートのコロッケ、セカンドプレートの豚肉香草マッシュルームソース焼きとライス、ポテトフライ、それに付け合わせにレタスを半分に切ったものが別の皿で出てきた。そして最後にシュークリームのようなデザートだった。

Img_0001_13  23時過ぎにホテルに戻り、さすがに疲れてまたシャワーなしで寝てしまう。

 もう一点、昨日、CRCミーティングを金曜午後にやるので出席するようにと伝えられた。ミーティングは15時からの予定なので、金曜午後のケイビングは不可能になり、ケイビングをせずに日本に帰ることになりそうだ。せめて観光洞には入っておきたいところである。

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2007年5月27日 (日)

会議初日

5月15日
 昨夜、遅くに到着したものの、時差ぼけの影響か朝6時半過ぎには起床した。日記を書いたりシャワーを浴びて過ごしたのち、朝食に行く。

Img_0001_5 受付は10時から。受付登録を行うと、メケイビングバックと予稿集などをもらう。ケイビングザックはコンファレンスのマークがプリントしてあるメアンダーの特別バージョンで、他にLED付ボールペンと携帯電話入れ(かな?)そして、メアンダーのステッカーと”CAVER IN CAR”のステッカー。これは日本のとあるケイビングクラブが作成したものをメアンダーの社長にプレゼントしたら、逆にく作って良いかと打診をのあったものなのだが、こんなところで配られているとは思いもよらなかった。
Img_0001_6 この日は国際洞窟学連合の救助委員会のミーティングがあるとプログラムにあったので、コンファレンスを行うホテル(私の泊まっているところ)でしばし待つが始まる気配は無い。待っている間にベルギーのジャン・マルクからレスキュー関係の本を70ユーロ分買う。70ユーロといえば11000円あまり。ユーロも高くなったものだ。しかし数年前のスペインで見た謎のノットの解説が載っている本があり長年の謎が解決したし、他にも興味深い本があったので後悔は無い。それでも時間が余ったので暇を持て余していたらホテルのロビーでレバノンのバードラやプエルトリコのエルファンらが談笑していたので一緒にコーヒーを飲みながら待つが、結局ランチタイムまで始まることは無かった。というよりは、早々に会合が無いことは判っていたのだけれど、皆やることが無かったということだ。しかし話しこみすぎて昼を食べる時間が無くなってしまいグヤーシュというパプリカの粉のたっぷり入ったハンガリーの典型的なスープを食べた。

Img_0002_2  14時から開会式が始まる。ケイビング関係者だけでなく政府関係者の挨拶があり長い。終わったのは15時ごろだ。ハンガリー前首相や警察庁長官(chief commisioner)など、そんな人のメッセージもあった。もしかしたら本人がいたのかもしれないが、後ろの方の席だったので誰がしゃべっているのか良く判らなかった。ともかく、ハンガリーにおいては洞窟救助組織がそれなりの地位を占めているのは間違いない。
 10分の休憩の間に入口で、洞窟切手を売っていたので買う。良く見ると今回のコンファレンスの切手だった。

Img_0001_7 午後の最初のセッションはいわゆる記念講演だ。開会式のときに黙祷した、前委員長で先月亡くなったアンドレ・サロモンの業績の紹介の後、現委員長のクリスチャンによる世界16カ国の洞窟救助に関するアンケートの結果だ。救助組織はあるかないかを始めとして、政府などとの協定はあるかなどそう言った質問項目に対しての回答結果である。日本は常に無い方の数字の回答だったのが悲しい。まあ、救助組織が無いんだからしょうがない。
 その後、先の切手に関するプレゼンがあり16時半に終わり、19時からのハンガリーパーティまでは休憩となる。Img_0002_3
 部屋で 

 19時にハンガリー・パーティが開かれる屋外テントに行く。使い捨てカップにジャガイモを入れ、肉入り煮込みソースをかけて食べる。なかなかおいしい。ハンガリー料理とは少し違うといっていたので、普段の活動で食べているものなのだろう。
Img_0001_8  そのあとはひたすら飲む。飲む。途中、嵐(雷雨)が来てテントが倒れかけ、浸水したりもあったが23時半まで飲んでいた。テキーラやウィスキーなど各国の参加者が持ってきたお酒も飲んだ。日本酒を忘れたのが痛い。

 

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2007年5月25日 (金)

集合

Img_0001_1_2  会議参加者の集合は昨日訪れたSzemlo-hegyi Caveという観光洞に14日夜に集まるか、国際空港でピックアップしてもらうか、自力で行くかのいずれかである。ピックアップは
14日の朝から夜までと15日の朝に行われる。私は既に12日夜にブタペスト入りしていて、気分はすっかり観光客だったので14日夜に観光洞へ直接行くことにしていた。Img_0001_2

 

14日は朝から観光し、夕方にホテルに預けた荷物を取りに戻ってから地下鉄を乗り継いで洞窟へ向かった。乗換えで15分ほどバスを待ったのち、観光洞に着いたのは19時25分頃だった。事前にオーガナイザーからは19時に観光洞の前に来るようにと言われていたので観光洞前でとりあえず、待つ。しかし既に観光バスは来ているのに人気が無い。おかしいなと思うと、参加者かと声をかけられた。観光洞前ではなく、観光洞の入口の建物内が集合場所だった。
Img_0002_1_1  中に入ると、昨日この観光洞に来たときに子供が誕生日会をしていた部屋に、多くの人が集まっていてビールを飲んでいた。いや、もう飲み終わったという感じだったので18時ぐらいか、朝に着いたという人もいたので、もっと早くからよろしくやっていたのかもしれない。これならチェックアウトしてからホテルに荷物を預けず荷物を持ってきても大丈夫だったかもしれない。

 集まっていた人の中にはレバノンのBadrやプエルトリコのArfineなど10年来の知人や、2003年に英国で行われたRESCON3で世話になったUKの人などもいた。Badrとはさすがに最初に会ってから10年も経つせいもあり、頬を付け合う挨拶をした。ハグの一種かと思っていたが、ビズというらしい。日本には無い習慣なので、最初は慣れなかったものだが、ここ数年で少しは慣れてきた。
Img_0001_3  ともかく、まだ自己紹介も何も名札も無いしで、会ったことのある人以外は誰が誰だか判らなかったが、メキシコ人グループからは昨年だったか一昨年にメキシコに来た日本人を知らないかと話かけられ少し話した。が、話をする間もなく夕食を食べに行こうと7時45分には麓のレストランに出かけた。この日は朝も昼も食べていたので、抜こうかと思ったけれど、ブタペストで食事をする機会も最後と行くことにした。店では典型的なハンガリー料理ということでオーガナイザーお勧めのビーフの香草のせ焼きを食べた。隣のメキシカンはそれ以外にも多くのスープなどを食べていた。良く食うなあとその時は思ったが、スープとプレートと言うのがハンガリーの食事のスタンダードのようだ。なんだかんだと食事から戻ったのは9時50分頃だった。

Img_0001_4 観光洞に戻るとす ぐにバス出発となった。10時15分に出発し、翌日になる25時45分までの3時間半でアッグテレクの観光洞前に到着した。バスの中は風が吹きぬけるので結構寒く、長袖では厳しかった。ブタペスト観光中の2日間は、暑さに辟易していただけに、この寒さは以外だったし、現地も肌寒かった。ブタペストでは持ってくる衣服の選択に失敗したかと思っていたがここで一応一安心できた。もっとも、翌15日も大変暑く、Tシャツ一枚でなければ過ごせなかったので、この安心も一瞬ではあった。
 アッグテレクの宿泊施設は観光洞脇のキャンプ場とキャンプ場併設のバンガロー、それと500mほど離れた場所のホテルとあった。7割ぐらいの人はバンガローかキャンプ場に泊まるようで、そこで降り、残りの人がホテルまでさらにバスで異動となった。ホテルへは結局2時に着き、チェックインしてシャワーを浴びて寝た。


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2007年5月23日 (水)

ブタペスト観光洞

Bud_0011  第11回国際洞窟救助会議に出席するために5月12日に日本を発った。会議は15日からでブタペスト近郊の鍾乳洞に14日夕方集合であったので、13日と14日はブタペスト観光をした。このうち13日は洞窟めぐりを、14日は史跡巡りをしたわけであるが、13日の観光洞巡りについて少し書こう。

 Bud_0010ハンガリーの首都であるブタペストにはいくつか観光洞がある。東京都の奥多摩に観光洞があるのと同様と考えてはならない。都心部、いわゆる王宮や国会議事堂があるところから車なら10-15分、歩いても1時間あまりもあれば着いてしまうだろう。実際には地下鉄やバスを乗り継いでいったので30分ほどであったけれど、すぐ傍である。

Bud_0005  二つの観光洞に行った。最初に行ったのはPal-volgui Caveという洞窟。意味はPal谷の洞窟というところだろう。ブタペスト中心部を流れるドナウ川の左岸側は平地だが、王宮のある右岸側は山がちの地形で、ドナウ川から標高差100-150mほど上がったなだらかな丘の中に、盲谷がありその周辺に広がる穴である。
 
 Bud_0001 私が着いたのは午前10時半頃だが、その時ケイバーが15人ほど着替えなどの入洞準備をしていた。まあこちらは観光客なので普通にチケットを買う。買うといっても、ブタペストカードという観光客用にブタペスト市内の交通や博物館などが48時間無料となるカードを買っていたので、入洞料を支払ったわけではない。ともかく1時間に一度ガイドツアーが出ると言うシステムである。11時過ぎと言うことだったので、それまで暇なので、写真を撮っていると、私が着ていたRESCN3のTシャツに反応して、ケイバーの一人に発見された。今回のコンファレンスの会計者で、どうもRESCON3であった事のある人だったようだ。でもぜんぜん覚えていない。

Bud_0002  彼らが穴に入っていき、11時15分に20人ほどの人でガイドツアーが始まる。1904年に発見され19kmあるこの穴は結構迷路状で一応ハンガリーで二番目の長さとなっているそうだ。2000年以降にも新通路が発見されるなど伸びつづけている。たぶん、狭洞部を掘ってるに違いない。この穴のある一体は盲谷こそ木々が茂るが、ちょっと離れると普通の住宅地である。穴自体は盲谷の末端に開口している感じだ。穴はかなり乾燥していた。Bud_0003

 ガイドツアーといっても案内はハンガリー語なのでさっぱり判らない。他に一組のカップルも話が判らないようで、最初の説明のあとスペシャルポイントだけで良いから英語のワンポイント説明をしてくれと申し入れていた。しかし彼ら同士では英語を話していなかったし、なにより男性の着ているTシャツはPETZLだった。怪しいなあと思っていたら、Bud_0004 スレーブユニットをつかって写真を撮っていた私に、君はケイバーかと話し掛けられた。やっぱり会議の参加者でノルウェイから来た人であった。50分ほどで別の洞口から出ると入口より上流にあたる谷間の広場に出た。そこではケイバーがSRTトレーニングをしている人がいた。

 この観光洞窟の受付では、いくらかの洞窟本と洞窟アクセサリーの小物が売っていたが、壁にかかっている洞窟救助組織が作った月代わりカレンダーのほうが興味を引いた。こんなものを作っていて観光洞窟までにあるとはすばらしい。

Bud_0012  このあと、1km程離れた場所にある別の観光洞窟(Szemlo-hegyi Cave)へ歩いて行く。少し道に迷ったが、12時50分頃に到着し13時からのガイドツアーに参加した。入洞料金はやはりブタペストカードで無料である。先ほどのケイバーカップルも来ていた。この穴はジプサムやカルサイトの結晶などで有名なようで入口の展示施設に展示があった。こちらの穴は数キロといった長さだったように思う。パンフレットには書いてあったのだけれど、今はわからない。

Bud_0006  入口は住宅地の斜面にあるが自然ではなく人工で掘られた斜洞だった。他にも入口が二箇所あるが、いずれも人工のようなので、どのように発見されたのだろう。

Bud_0008  こちらの穴は期待値が高かっただけに残念だった。ジプサムは見られず、ひたすら大きめの洞窟珊瑚の通路が続く。カルサイトは幅3cm程の層が母岩に貫入しており、一箇所通路に露出していたのを見ただけだった。ガイドは基本的に二次生成物がアリゲータに似ているとか、象に似ているとかそんな話が多いように感じた。

 途中、深さ40m、直径6m程の人工のシャフトがあった。何のために掘られたのやら。Bud_0009

 この穴を出たあとは歩いてドナウ川沿いの駅まで戻り、2駅分バスに乗りさらにトラム一区間乗ったあと王宮の丘へ歩いて上る。14時半過ぎだったろうか。漁夫の砦にたどり着く。ここからはブタペストの町並みの展望が良い。

Bud1_0006  しばし写真を撮った後、王宮の地下迷路に行く。町並みの建物に入口があって、地下鉄の入口のようである。10mほど階段で降りた先にチケットオフィスがある。ここは無料にならず25%割引であった。地図をもらっての探検となるがルートガイドが所々の壁にあるし、薄暗い照明がずっと点いているので迷うようなことはない。Bud1_0002 穴はもう人工のものばかりで自然部分があるかは定かではない。中には壁画やオブジェなどで展示があり、ラビリンスの音楽があって薄暗いしで、穴に慣れていない人なら怖いのだろう。観光客の少なくなる夕型以降以降は照明を落とされることもあるようで、その時に入ったほうが楽しめたかもしれない。

Bud1_0005  そして極めつけはワインの沸き出る泉である。これは脇道にあるのだけれど、アルコール臭がかなりきつい。アルコールに弱い人は近寄れないだろう。私も近寄るのにかなり躊躇した。他にはフットパスの化石を作るといってさまざまな足跡やノートPCの型の採られた粘土質の岩が置いてあった。しかし、高さ3mのコーラのビンの型はいかがなものだろう。数千年~数十万年後に化石として発掘されるのかもしれない。Bud1_0003

 この穴にはもうひとつ出入口がありそちらから出ると王宮の丘の石垣の西側の下付近にでた。

 この後は、再び王宮への階段を上り、王宮へ向かうが、道端のレストランのビールの引力に負けてしまう。しばらくだらだらとしたあと、漁夫の砦脇の教会に行った後、夕方に宿に戻った。その後、夕食を食べに行くつもりだったのだが、前日の疲れもあり深夜まで寝込んでしまい夕食を食べ損なった。

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