2007年2月27日 (火)

1月8日

R0012823  最終日は、もうあまり書くことは無い。朝6時前に起床し、慌しくバスに乗って早朝から部分的に渋滞する貴州の街中を抜け空港へ向かう。7時半ごろには空港に到着し、チェックインを行う。装備重量はみやげ物をもらったこともありかなり増えている。しかし、オーバエクセスを取られることは無かった。
 中国側メンバーとの別れを告げ、制限エリアに入り8時40分発の飛行機に乗り込んだ。離陸してしばらくしてから1週間あまりぶりの太陽を久しぶりに拝むことができた。広州には10時過ぎに到着し、5時間ほどの乗り換え時間をつぶすこととなる。
R0012825  貴陽では朝飯を食べる暇が無かったので、チェックイン可能になるまでの間、食事をとることにした。安く行くか、最後だからと広州料理を堪能するかとの議論の末、空港でもっとも高そうなレストランへ行くこととなった。
 中国滞在中、我々はほとんど中国語を必要とする機会が無く、英語での会話がほとんどであったし、食事にしても中国側メンバーが注文してくれていたと言うこともあり、ここに来て初めて料理のメニューを見たと言ってもよい状態である。往路の広州でも麺を食べたけれども、基本的に麺で具が海鮮なのか肉なのかと言うぐらいの判断で済んだ注文であったのに対して、このレストランのメニューはなかなか難解であった。
R0012827  まあそれでも、なんとか注文を行った。いくつかは思ったものと違うものが出てきたようなきもするが、まあ貴州と違って辛くない中華料理は腹に優しい。

 食事後、チェックインを行う。このとき、自分の荷物の重量を始めて知ったが、実に34キロほどであった。特典無料航空券の関係で成田へ帰る10人中2人は別のチェックインであったけれど、二人で70キロほどと本来の制限である40キロを大幅にオーバーしていた。しかし、往路がビジネスだったのが良かったのか特典航空券だからなのかは判らないが、今回は特別ですよと言う感じでオーバーエクセスを取られることは無かった。ありがとう全日空。考えてみれば私はこれまで一度もオーバーエクセスを取られたことが無い。無料にしてくれと交渉したこともない。たいてい預け30キロ、機内持ち込み10キロなのだけれど、運が良いのだろうか。それとも顔が怖いのか?
 それはともかく、残りの8人はと言うと、皆まじめに荷物を機内持ち込みにしていたようで20キロをやや超えるぐらいだったらしく、オーバーエクセスを取られるような状態では無かった。ただし、その後セキュリティチェックで酒が駄目だったり、土産にもらった貴州務川特産のユリの粉が麻薬ではないかとチェックされたりと引っかかる人々は何人もいたようだ。後日談ではあるが、福岡経由で帰った一人は別室送りになったらしい。
 まあ、そんなこんなでチェックイン後はみやげ物を買ったりしながら機上の人となり成田に帰り着き解散となった。




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2006年10月10日 (火)

4月1-2日

R0010142_1  朝7時ごろ、日本から電話があり、父の危篤との報を受けた。ため帰国することにし、ホウウェイらに伝えた。9時ごろに貴陽行きのバスがあるというので、それに乗ることにする。荷物をパッキングし、ワンタンの朝食後、宿前の道で待つ。現金の手持ちがやや心もとなかったので、Yさんにお金を借りた。これがあとで、大きな助けとなった。R0010143_1
R0010152_1  9時前ごろから双河洞に行くジープが出ていくのを見送った後、9時45分にバスに乗る。双河洞は1988年に初めて訪れて測量調査を行って以来の訪問になるはずだったので、非常に残念であった。1時間ほどでシーアンの手前でトイレ休憩、12時にツンイーを通過した。14時には貴陽まであと50kmほどまでとなり一安心というところだったのだが、14時15分ごろに交通事故でバスか何かが高速道路上で激しく炎上しており、通行止めとなる。急遽バスは少し戻って迂回するが、迂回路も道路工事で道が悪く片側通行となっていたのであっという間に、スタックする。中国ドライバーは渋滞していると躊躇なく対抗車線に出るので当然の結末である。交互通行の考え方がないし、対抗車線を突っ走るのもデフォルトだ。

R0010161_1 やることもないので、その間に日本に電話したり、飛行機のスケジュールをNWAやVISAカードに問い合わせたりした。日本への最終便は16時ごろ、翌日の便でも13‐14時着と判る。ノースウエストは明日の便はいずれも空席があるという。渋滞が無くとも、今日の便には間に合いそうも無い。とりあえず、北京や上海、広州などに出るところまでしかいけないので、渋滞の遅れは関係なさそうだった。16時を回ってから警察が交通整理に来て動き出す。その頃、日本より父が亡くなったとの電話が入る。しかし、そのすぐ先でも渋滞があり、17時15分ごろにやっと走れるようになった。

 貴陽には18時に入り、バスを降りて、タクシーで空港に着いたときには18時40分ごろであった。タクシーはぼられた気がするが、時間が急いていたので仕方がない。そして北京への飛行機はなく、上海は24時着なので広州行きを選択した。610元で現金払いしかできなかった。中国国内発行のクレジットカードも使えるようだったが、そんなものは持っているわけも無い。そして現金は800元ほどしか持っていなかったので、上海へのチケットは買えなかっただろう。チェックイン後に、空港内を探したが、ATMはなかったし、銀行も無かったからだ。

 制限エリアに入ってから子供の土産を買い飛行機に乗る。日本へのチケットの手配は既に電話の取り扱い時間外になっていたので、ネットで行うか空港でとなるだろう。21時半に空港に着く。

 荷物受け取りの手前でエアポートホテルのブッキングを受け付けていたので、ここで決めた。280元をカードで払い、あとは係員の誘導にしたがって、ホテルまで車で行く。宿には22時50分ごろ到着する。明日のフライトを調べてもらうが、今一つ判っていないようで、結局役にたたなかった。シャワーを浴びた後、レストランで焼きそばとビールで遅い夕食を取り、24時過ぎに部屋に戻る。インターネット接続を部屋の電話から試みるが果たせなかった。部屋にはTELポートもLANポートもあるのにである。25時半ごろに寝る。

 翌朝、6時にはホテルを出て、空港に向かう。そしてチケットを買おうと空港内を探し回るが7時か8時にならないとチケットオフィスが開かないことが判明。聞く人によって違うのが悩ましい。そして成田行きの飛行機はノースウエストと中国南方航空の2機が8時半頃発。マイレージの都合が良いノースウエストのチェックインカウンターは7時20分にはクローズするとなっていて、待っていては間に合わない可能性が高い。チェックインカウンター入り口でどうにかならないかと尋ねるも、どうにもならない。しかもノースウエストは満席になったとのこと。
 仕方が無いので、オフィスが開くのを待つが幸いにも7時に開く。そこで購入を試みるも、担当者があまり判っていないのか、夜に東京に着く香港経由の便しかないという。仕方が無いので、その便でいいかと思い、フライトスケジュールを出してもらうと、何故か羽田行き。確かに、東京に行きたいとは言ったが、まあ成田ならどうだというと、ノースウエストより僅かに遅いJAL便を示される。
中国南方航空のコードシェアだが、考えても仕方が無いので、5000元ほどで購入する。すると時間が無いからと、カウンターの女性にそのままチェックインカウンターまで連れて行かれ、チェックインのGHと交渉を始めた。すると裏から責任者が出てきて、携帯でいろいろ連絡をとっている。どうもチェックインは終了していたようだが、数分後に、乗れるよということになり、チェックインを行う。そして、そのまま出国し、何もするまもなく飛行機に乗って日本へ帰ったのであった。幸いなことに、ちゃんと荷物もロストすることなく。
 しかし、まあ、空港で国際線チケットを買って1時間経たずに飛行機に乗るなどということは、たぶんもう一生経験できないだろう。

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3月31日

R0010051_1_1  この日は、移動日となる。昨夜は早くに寝てしまったので、様子がわからなかったが、この地域の可能性があまり多くないということで予定を一日切り上げて次の場所に行くということであった。
 早々に荷物をまとめ、9時過ぎに出発する。途中、道々にある洞窟や景色の写真を撮るために何度か停車する。市坪の直ぐ近くで、昨日まで調査していた穴をジャンピエールが見ていないということと装備の回収のため停車するので、私も付いて行った。R0010080 道路から10分ほどの距離であるが、大きなナチュラルブリッジの上に、寺が建っているなかなか幻想的な風景で、見に行ってよかった。できれば、もっと見たいところであるが、まあ、時間がないし、体調が良くない。
R0010070_1 次には洞口来る途中に見た大きな穴の一つでは長めの停車となった。ここは道路に交差する谷の300mほど奥に岩壁がありその基部に開口する穴である。その岩壁の上部の壁には、寺か何かの小さな祠のような建物があり、また道路と反対側には対応する寺があった。R0010073_1
 次の目的地である温泉には昼頃に到着する。食事後は、暇な時間となり釣りをしたり、寝たりと皆様々な時間を過ごしていた。私にとっては良い休養になった。しかし、この3日穴に入っていないし、明日は18年前に訪れた双河洞へ行くので期待が高まる。しかし、18年前に10日間ほど調査した時は、最長の穴で3kmで、R0010123_1概ね1kmほどの穴を10本ほど調査しただけであったのに、その後それらのほとんどが接続し80kmまでになっているとは思いもよらなかった。昨年、ギリシャでジャン・ピエールと話をしたときにそう聞かされ図面を見た時には驚いた。それゆえ、調査に参加できないかとその場でお願いしたわけでもあるけれど。後日談としては、この穴。今回の調査で総延長が100kmを超えた。 いったい一日に何キロ測量しているのやら。

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3月30日

 朝4時ごろから腹が下る。6時過ぎにもう一度トイレに行く。熱はなかったが、9時ごろには37.4℃となった。腹は胃のあたりが時々痛む。この状況では行動できないので、休息日とする。暇なので、実家と家に電話するが特に問題はないようだ。この一帯は何処でも携帯電話が通じるのが良い。Rimg0033_1 電気よりも携帯電話の法が先に通じるのではないかというぐらいであるが、まあそれはないだろう。実際のところ、有線電話よりも携帯電話のほうが普及しているように感じるが、これは発展途上国の一般的な姿だろう。

9時20分に再度トイレに行くが、水しか出ない。昨日からの飲み食いの量からして腹には何も残っていないだろう。12時ごろも同様だった。13時にビスケットとりんごを食べ、再度、胃炎用の薬と抗生物質を飲む。13時半ごろ、ジャンピエールが訪れる。彼は部屋で仕事をしていたそうだ。さすがに、長丁場になるとデータ生理が追いつかないようだ。分度器がないかと言うことだったから、何らかのプロットをしているのだろう私も持ち合わせがないというと、市に探しに行った。学校では分度器を使うはずなので、多分見つかるだろう。15時前には、クリスチャンらが活動から戻ったようだ。R0010011_1

結局夜には体調もやや回復し、翌日はなんとか行動できそうな状態となった。

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3月29日

Rimg0006_1  夜中にかゆみで何度も起きる。朝7時半に起きて、出かける準備をした後、8時15分に朝食に行く。相変わらず、麺である。
 9時半ごろ市坪より更に奥に向かう。水打場という場所に流出口があるというので見て回る。3箇所あったが2箇所は小さすぎて人が入るようなものではなかった。最後の一つはかろうじて入れるが、Rimg0027_1 7m程で狭くて入れなくなるようなもので、測量することも無く次へ行く。その後、もう一箇所ヒアリングによって小山の斜面に穴を見つけるが、5mほどの下りの斜洞であった。
 バスまで戻り市坪に戻る。市坪の少し手前に、川の流入口があるので回りから眺めると、人が入れそうな穴が見える。明日アタックすることにして市坪に戻る。
Rimg0035_1 ここで、ジャンピエールとクリスティーヌは降りて、残りのアレックス、エリック、ジャンシー、ホウウェイ、シャオファらと温泉からの道の途中で見た穴に向かう。しかし、少し手前の町の入り口でトラックが道路の穴でスタックして道を塞いでいたので、そこから歩くこととなる。 30分ほどで、最初の穴のふもとに着く。Rimg0056_1 ジャンシーがヒアリングしたところ、麻青洞という名で、地元民が200m入って終わっていたという。ほかにも3つの穴をヒアリングしたが歩いて行くには遠いので、戻ることにした。トラックはスタックしたままであった。
 宿には16時ごろに戻り、洗濯した後、近くの市に行く。すでに終わりかけていたが、なかなか大きな市であった。店でオレンジジュースの1.5リットルペットボトルを6元で、かゆみ止めを1元で買った。ここの子供たちはフレンドリーで良く話し掛けてくる。中学生ぐらいの女の子に、「市坪へようこそ」と英語で話しかけられたので、英語で返答するも理解できない様子。英語教育はまだまだのようだ。アレックス、エリック、クリスティーヌも市にいて買い物をしていたが、Rimg0076_1 やはり白人ということで目立つのか、子供達を引き連れて歩いていた。
 17時半に宿に戻り、18時過ぎに夕食。夕食後は宿の入り口の部屋で、TVを見たり、地元の子供と会話をした後、ジャンピエールの部屋で仕事をする。21時半ごろに甘い粥の夜食が用意されたので皆で食べた後、22時に部屋に戻り、日記を書いた後、23時半に寝た。

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2006年9月 3日 (日)

3月28日

Rimg0075  朝8時に朝食、9時半過ぎに出発する。正安には10時過ぎに着くが、そのまま温泉に向かう。途中で貴陽行きのバスに追い抜かれる時にK君は降ろされ、じゃあと前振り無く別れることとなった。彼は貴陽で一泊後、汽車と船とを乗り継いで帰宅するので日本に帰り着くのは4-5日先だろう。
Rimg0099  そのあと、しばらく走ると、急にタイヤ屋の前で止まった。どうもリアのダブルタイヤの一方がパンクしていたらしく、交換のために立ち寄ったわけだ。バスの外にしばらく出て様子を見ていたが、バールやハンマーなどを使いすべて手作業でホイールからタイヤを外し、はめ直していた。日本では機械で全自動で30秒もあれば済む様な作業だが、手作業なので15分か30分ほど掛かっていた。
Rimg0108  11時半頃に温泉にある、水晶温泉という温泉施設に着き昼食となる。昔来た時には8畳ほどの薄暗い脱衣所の無い湯船があるだけだったのだが、その時とは隔世の感がある。立派な食堂はあるは西洋風のホテルも併設され、温泉プールに、日本風の露天風呂や蒸し風呂もある。まあ、風呂と言っても水着着用なので、西洋風のSPAである。豪華な昼飯を食べたあと、13時過ぎからはスパに行く。通常なら50元であるが、フランス隊の功績により無料だった。双河洞のことがあるからだろう。25m温水プールや露天風呂などがあり、広かった。Rimg0121
 SPAから出たあと、ロビーでくつろいでいると、88年に私が温泉に来た時のコックがやってきた。でも全然覚えていなかった。まあ仕方がない。また、このとき、重慶のケイビングクラブの人と電話で話をした。是非、探検に来て欲しいと言うような内容であった。このところ、中国国内の一般人のケイビング熱は高まっているような感じだ。

Rimg0142  3時半ごろに市坪に向かう。市坪は班竹の南、温泉の東に位置する。5時半頃に到着する。宿は今までで最も良い。ただ、直ぐ向かいというか中庭と呼べる場所には豚が飼われているのが難点だ。18時半に食事をするが、疲れているのか、食もビールも進まない。20時過ぎには寝てしまった。

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2006年6月 3日 (土)

3月27日(中国遠征 Kaolin2006)

Img27_0001 昨夜遅かったため、皆起きるのが遅いが8時半には食事、9時半過ぎには出発する。一昨日、発見したMeidongwanにジャンピエール、ロベルト、アレックス、セバスチャン、クリスティーナ、エリックと行く。10時半頃に入洞。洞口の12mピットの後はメアンダー状の通路で緩やかに下っていく。洞口から100m程で、別の大きな 通路に合流し、上流側と下流側に分かれる。ここから下流側に向かって行き、途中いくつかに分流したりループしたりしている。Img27_0002_1 途中写真を撮りながら-100m程まで下るがロープが必要な場所はない。しかし洞幅が狭いので、あまり良い写真は撮れなかった。ちなみに総延長は2km程だろう。

12時ごろに測量メンバーを残して、セバスチャンとクリスティーナと引き返し、13時ごろに出洞する。クリスティーナは宿舎に歩いて帰り、セバスチャンと13時半に昨日の穴、靈山洞(Lingshandong)へ行く。

Img27_0003洞口で食事後、14時からチロリアンブリッジの撤収をはじめる。セバスチャンと撤収 について打ち合わせを行うが、結構シビアな撤収になるようで、セバスチャンはかなりピリピリしていた。セバスチャンが対岸にチロリアンブリッジを使って渡った後、洞口側のイタリアンヒッチを解除し、ロープを対岸のセバスチャンに渡す。その後、チロリアンブリッジを設置するために対岸に渡ったルートを撤収するのが私の主な役目だった。

チロリアンブリッジ手前の右手の壁に垂れているロープを登り始める。10mほど登ると5mほどのボアパッセイジの横穴があり、その先は涸滝の脇に出る。ここのボトムの直上3mほどに普通のディーヴィエイションがあるが、その先が問題だった。ボトムから5-6m上に通常ならメインアンカーとなるべきところが、ボルト直のディーヴィエイションでロープはそこから真横に伸び岩の影へ消えていた。どうしたものかと思ったが、ロープを引いてみると体重を支えられるようだったので取り敢えず登る。メインアンカーとなるべき場所までで登って、横に振り子で岩陰にアプローチを試みるが届かない。2mほどクライムダウンしてから再挑戦しロープが消えていく岩影に乗る。その先は歩ける段の着いた斜面が5m程あり、その先で2つのアンカーで止まっている。そこからさらに、岩の裏に周り10mほど降下する。そこから横に7mほど離れた場所に最後のリビレイがある。リビレイまでは、壁の突起をつかみながら、トラバースするが、壁から剥がれ落ちると大きな振り子になるので、これまた怖い。

その後、悩みながらも何とか撤収をして、チロリアンの基点付近の竪穴にリギングをして、セバスチャンを回収し15時半に出動する。15時50分にバス乗り場まで戻った、バスがいつ来るか判らないし、来てもジャンピエールが戻らないと出発しないので、セバスチャンと相談し歩いて戻ることにした。40分ほど歩いて、16時半に町に着いた。しかしバスは16時50分頃に戻ったので多少早いだけであった。

 その後はシャワー屋にシャワーを浴びに行き、食事をして宿に戻り、翌日の移動のためのパッキングをする。このころからノミかダニに刺された場所が痒く膿んできているので寝るのがつらくなる。20箇所ぐらいはやられたようだ。ちなみに帰国後、数えたら80箇所ほどあったのはかなり悲しかった。

 

Img27_0004  この日の夜は、ドミニクの誕生日ということで、小さなパーティを行った。中国産の甘いワインと、チョコレート、そしてその他の様々なお菓子やパンでのパーティだ。私も日本産の麦焼酎を提供した。宿の子供達も加わり、楽しい時間を過ごした。日本、中国、フランス対抗歌合戦のようなこともあったが、日本は劣勢だった。起死回生の一発を狙って? 「幸せなら手を叩こう」を使ったら、実はこの歌はワールドワイドな歌で、フランス語版も中国語版もあったので、少し外してしまった。Img27_0006

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2006年5月12日 (金)

3月26日(中国遠征 Kaolin2006)

Imga_0012  朝8時半に食事。長時間行動になるから腹が減るだろうと麺を2杯食べた。いや食べさせられた。9時過ぎに、靈山洞(Lingshandong)に行く。10時に入洞する。入り口付近で準備した後、直ぐに奥へ行く。メンバーはセバスチャン、アレックス、クリスティーヌ、双刀、K君の6人。この日は他に測量班が入っており、先行している。10分ほどで、チロリアンブリッジのかかるピットに到着。長さ20m程あるので、さすがに通過に時間がかかる。そのあとは、幅2-4m程、天井5m‐20m程の狭い通路をずっと進む。所々狭い個所があるが、匍匐前進が必要な場所はない。

Imga_0009 迷いながらも先へ進み、2時間ほどでプールのある大きなメアンダートレンチに着く。水面から10mほどの位置をトラバースライン+懸垂下降で進むこととなる。かなり高い位置のテンショントラバースのうえ、足元の岩が崩れ落ちるため、結構怖い。最後の20mのピットを降下すると幅50m以上の広い通路にでる。全員が到着したのは13時ごろで食事の後、さらに進む。広い通路だが、落盤、落石が多く歩きににくい。降下点から1km、高低差で-100m程進んだところで別の通路と接続する。

Imga_0007 この付近には牛乳色の堆積物の溜まったプールがあり、美しい。進行方向と逆方向に進むと牛乳プールと名付けられた場所があるようだ。ここから、さらに500m程進むと水流に出る。この水流はオレンジ色をしていて興味深い。正確には水流の流れる所の堆積物によってオレンジ色に見えるである。

Imga_0002 このあたりから写真を撮る。双刀はキャノンS50を持っていたが、最初少しだけ撮影しただけで、あとは撮影補助に回っていた。セバスチャンはフィルムカメラと50W電球サイズのフラッシュバルブを持ちこんでいた。アレックスはキャノンのAシリーズのカメラを防水ハウジングに入れたものと一眼デジタルカメラを持ちこんでいた。私はリコーのコンパクトデジカメである。14時過ぎから撮影をはじめ、水流沿いを右往左往する。電球サイズのバルブを使った撮影には時間がかかる。そして、発光しないという失敗も多く、バルブを浪費する。15時半ごろから戻り始め19時にImga_0006 最終ピット下、21時半にチロリアンブリッジに到達する。ここを渡っている最中に測量班に追いつかれた。そして22時に出洞した。

Imga_0008 出洞時には既にすべての水が失われていたので、帰りのバスに着いたところで水をもらおうとしたところ、瓶ビールがあったので、ビールにした。しかし、栓抜きがなくバスの中の様々な突起を使って開けようと試みたのだが、10分余りかかってしまった。宿舎に戻って直ぐに夕食を慌しく食べた、そしてすぐに寝た。

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2006年4月23日 (日)

3月25日(中国遠征 Kaolin2006)

 

Rimg0009 桴焉(Fuyang)の標高は1150m程である。町はあまり大きくない。9時ごろにバスで出発し10分ほどで平安という村への分岐付近でバスを降りる。数分谷を降りつつ歩くと、深さ100m以上あるポリエが見えてくる。

このポリエ内の右手の岩壁にこの地域最長の靈山洞(Lingshandong)が見える。
Rimg0018 靈山洞へ行く班と別れて、ポリエの底まで降り左手側の用水路を歩き、500mほど歩き隣のポリエまで行くと右手に盲谷が見えてくる。


 谷へ降りると、水が吸い込まれるシンクホールがあるが、すぐに岩の隙間で水没しており、入れそうに無い。

Rimg0033  そこより下流の現在はほとんど水の流れていない方向に行くと二つの穴があった。一つは増水時には吸い込み穴として機能していそうな大きな穴であるが、20mほどで水没していた。

 もう少し左手の穴は本来の主洞であろうが、既に大半が埋没してしまい大きなロックシェルターとなっている。ただ、その左端に穴があり、やや広いホールになっているが、そこも30mほど先で水没している。この穴は洞口が二つあり、同じシンクホール内に開いている。Rimg0064 先ほどの水を吸い込んでいるシンクホールのやや上流の右岸上部にも穴があり5mほどで行き止まりとなるが、水音が岩の隙間の先から響いていた。結局、この盲谷終点には5個の穴や吸い込み口があった。

 この盲谷を出て最初に見たポリエへ向かって左側を歩く。石灰岩の壁際まで登ると、10mほどの貫通洞があった。それを抜けると、遠くから大きな洞口のように見えた場所に出るが、天井に穴が開いているのと、石灰岸壁に平行な方向にトレンチ状の狭い穴が10mほど続いているだけであった。ここから村まで降りて民家の軒先を借りて昼食となる。鶏がたくさんいた。

Rimg0109 そのあと、午前は見過ごした左岸側の上部の石灰岸壁に行く。しかし、穴らしい穴は無く、遠くから穴に見えたものは入り口だけのホールで終わっていた。仕方が無いので、帰ることにするが、途中の犬が激しくほえてきた民家の主人が近くに竪穴があって誰も入っていないという。そこで案内してもらうことにして、道なき斜面を登って行くと、車の通る道路の20mほど下に風の激しく吹き出る直径2mほどの竪穴があった。

ロベルトとジャンピエールが2時半ごろに入洞する。私は竪穴装備を持ってきていなかったのでホウウェイと待機した。しかし、1時間たっても出てこないので寒くなってくる。するとホウウェイは焚き火を始めたので、私も参加する。燃やすものはいくらでもあった。Rimg0143 2時間ほどしてロベルトが出洞する。穴は-12m のピットの後、狭い通路をしばらく降りると、大きなトレンチに出る。上流側と下流側があり、上流側には300mほど行き、下流側はかなり行ったところでピットになっていたので引き返したとのこと。鍾乳石は無いが、白い壁で直線的に続いているので綺麗な写真が撮れそうとのこと。17時少し前に宿に戻る。

 18時半ごろに食事に行く。リーポーと銭谷は、貴陽に帰った。銭谷は日本から遅れてくるYさんをつれて27日に戻ってくる予定だ。

 食事は、昨日と同じようなものだが、口に合わないものがやや多い。19時ごろには靈山洞の班が戻ってくる。20時過ぎには宿に戻る。21時ごろに、もうひとつの宿に行き、フランス人の仕事を見る。

 部屋には多くの装備があった。使う装備は結構違う。ドリルを使うときは細いクージョンを用いたり、ナチュラルはダイニーマ、ディーヴィエイションは2‐3mmのケブラーなどである。そしてツイストではなくストレートも多用する。

 また、ロープは9mmが基本で、10程度のショートピッチや急斜面、小さな段差などでは7‐8mmや6mmを使う。どのような状況にも対応できるように常に20m未満のロープを数本携帯し、アセンダーなどを持っている。また一人乗りのボートを持っていることも多い。

 夜10時過ぎに部屋に戻り11時には寝た。昼間、藪漕ぎをしたときにかぶれたのか、手足の所々が痒く、寝づらかった。しかし、この痒みは、かぶれではないことが後々、判明していくのである。

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2006年4月19日 (水)

3月24日(中国遠征 Kaolin2006)

 朝7時ごろに起きてパッキングをする。朝8時半過ぎに、いつもの朝食。9時半には班竹を出発した。Rimg0211_1バスは標高1300mあまりのカルスト高原をしばらく走ったあと、急峻な崖を下り川まで500m近く高度を下げて走っていった。見渡す限り、石灰岩、石灰岩という感じである。

11時45分ごろ正安に到着し、高級そうな重慶火鍋店で昼飯を食べた。大きな鍋に、肉や野菜や魚などを投入して煮て食べるものだ。重慶というから、辛い鍋を想像したが、余り辛くなかった。やはり配慮されているのかもしれない。この日の鍋には、八目鰻と思われる魚が出た。気持ち悪がって食べないセバスチャンと平気で食べているクリスティーヌなどやはりゲテモノ系は人によって違う。そしてやはり昼から軽くXiwine(白酒)を呑む。フランス人は昼はワインと相場が決まっているが、さすがに中国ではそうは行かず、ビールかXiwineとなっていた。
Rimg0227_1

 さて、このXiwine。アルコール度数は54度ほどである。私は苦手だが、強い酒が好きな人には飲みやすいようだ。飲む時には乾杯をするのだが、中国語では「カンベイ」と発音する。そして、意味も少し異なり、杯をすべて開けなければならない合図になるそうだ。日本語で言えば「一気」だろう。なので、「カンベイ」は余りされず、日本語で乾杯か英語のチアー、フランス語のアサンテなどが多用されていた。中国語では「チィンチン」というようだ。日Rimg0237_1本語にするとちょっとなんだかなという言葉ではある。さて13時過ぎに食事が終わり、1時間ほど町を散歩する。書店を探したが、移転後か廃業した新華書店しか見つからなかった。結局、火鍋店の近くで土産に髪飾りを買っただけに終わる。14時半に正安を出発し、15時15分にFuyang(桴焉)に着く。再び、宿が分かれ、班竹と同じ部屋割となる。

 この後は、特にすることがないので、自由行動となるが、部屋で休む。 今回の宿は班竹よりかなり汚いが、トイレに水道が来ていることだけは良い点だった。Rimg0254_1

 しばらく休んでいると、駕衛(ホウウェイ)がシャワーを浴びたいかというので、もちろんと答える。宿にシャワーはないが、100m程離れた場所にシャワー屋があるので、そこで浴びられるとのこと。しばらく後にバスの運転手に案内されていくと二部屋に分かれたシャワー室があり、それぞれ2つのシャワーヘッドがあった。中国の一般家庭にはシャワーが無いので、こうしたお店が繁盛するのだろう。

 17時半過ぎに部屋に戻る。18時半から夕食ということなので、散歩に行く。18時20分ごろに宿に戻ると夕食が始まっているとのことで、少し上った場所にある政府の招待所と思われる建物で食べる。班竹とはメニューが、かなり違っていた。

Rimg0257_1 この日はフランス人の多いテーブルに座ったので、いろいろ話をした。ジェロームは32歳でケイビングガイドの仕事を、アレックスは27歳でコンピュータプログラマー、クリスティーヌは29歳で保母とのことだ。他にも出身地や住んでいる場所などを聞いたが、やはり洞窟地帯に近いところに住んでいる人が多いようだ。

 この村では3日間活動し、28日に市坪(Shipin)に移動するとのことである。この地域の洞窟でもっとも長いのは総延長で17km、高低差450mあり未測量部が多く残っている。ほかにもいくらかの未探検の穴やシンクホールがあるとのこと。

 21時前にはお開きとなり部屋に戻る。ジャンピエールがパイナップルを買ってきたので、ご相伴に預かったあと、早めに寝た。

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